バンクーバー始末記(下)

鈴木武道 1988年入学

 

 カナダでの生活では大したドラマもなく淡々と過ぎていったのだが、前稿で書いたシェアメイトが落胆するほど「つまらなくなる」ほどの余裕もなかった。実は大学なんて本当はどうでもよくて(←すみません)、とにかく一刻も早く海外に飛び出して、現地の空気を吸って、働き、生活してみたいという、高校2年生の頃からずっと心に秘めていた妄想が8年かけて実現できたのだから。

 

 仕事は電話や飛び込みの広告取り。最初、名刺を作るときに社長に、「ファーストネームで既に似たような発音をする人間が重なっており社内のカナディアンが混乱するので、何か別に名前を考えなさい」と言われ、即答しなくてはいけないのかと思い、とっさに出てきた言葉が「Tom」。そのまま、そのスペルが名刺に印字されることとなった。後で友人達からもうちょっと何かなかったのかとバカにされたが、いま考えれば「トム・クルーズ」「トム・ハンクス」だって「トム」なんだから、どう名前を気取ってみても、元の人間がしっかりしていなければいかんともしようがないのである。

 

 お客さんからは日系人なのかといつも聞かれ、出自をいちいち説明するのも面倒なので、それで通すことにした。とはいえ、二世にしては英語が拙いし、一世でもないので、日系・五世というところ。加えてお恥ずかしいことに、カナダについても知識はほぼゼロに近い形でやってきてしまったので、この国の日系人の歴史については全く蓄えがなかった。

 カナダは、アジア人の移住者が多く、その流れで○○系カナディアンがよくいる。日本人も例外ではない。後に2014(平成26)年に『バンクーバーの朝日』(監督:石井裕也、主演:妻夫木聡)という映画が公開され、原作本(テッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日軍』東峰書房、2009)や漫画(原秀則『バンクーバー朝日軍』ビックコミックスペリオール連載、2012〜14)もあることで、戦前、戦中のバンクーバーにおける日系人の苦労が世に広まったが、当時の私は勉強不足で、現地にいても単に「日系人、けっこういるんだなあ」くらいの認識だったのである。

 ただし、後年、私は革命家チェ・ゲバラ(1928〜67)のボリビア最後の戦いで運命を共にし、処刑され、26歳で命を絶たれた日系二世フレディ前村の評伝『革命の侍』(長崎出版、2009)を編集することになったが、日系人の母国への思い、立場というのは、時代、国においても異なり、複雑で簡単にコメントできるものでもない。

 

ところで先の映画、ロケ地はバンクーバーだったそうだが、地理的なことやその他の諸条件もあってハリウッド映画でもよくバンクーバーでロケされることが多い。当時、偶然、馴染みになったベトナム人が経営するこぢんまりしたレストランで、ジャッキー・チェン(と屈強そうなボディーガードと思しき大男3名)に遭遇したことがある。お気に入りのベトナムチキンカレーの味を忘れるほど緊張して、私は背景と化してしまった。

 

 また日系人といえば、バンクーバーでは、毎夏に日本のコミュニティのお祭り「パウエル祭」というものがあり、それに合わせて、日本語劇をやるというので参加することにした。日系二世の青年と共演をした想い出がある(彼からは「日本人、中国人、韓国人の女性の見分け方」について貴重なアドバイスをもらった)。

 正直、学生時代のESSの英語劇でお腹一杯になっており、カナダにきてまで演劇(それも日本語劇)をやる気はなかったのだが、日本のコミュニティの情報収集ができそうなのと、制作スタッフだったらそれほど負担もなかろうと、不純な動機でちょっかいを出したのが運のつき。いかんせん座組の中で男性が少なく、私は当然のことながら、とうとう日系人も役者のメンバーに入れなくてはいけなくなった次第。

 

 このあたりの話は長くなるので割愛するが、前稿でお話した麗しきキツラノ・ビーチで、自主トレとばかりに人がほとんどいつもいない海外沿いを走ったり、ボイストレーニングで海に向けて叫んだりするのが日常生活に加わった。役柄が「幼なじみがゴジラに恋をしていて(ちなみにここは相思相愛)、それに嫉妬し、最後はウルトラマンに変身して当のゴジラと戦う、小心者だがやたらうるさくてバタバタしている巡査」(私の中で、イメージは『天才バカボン』の本官さん)だったので、引き受けた以上は何とかしようかなというわけ。ちなみに題目は劇団離風霊船の『ゴジラ』。劇団へカナダからファックスで上演の許可願いを出したのも楽しい思い出のひとつ。

 

 まあ、本当は、そんな付け焼き刃の無駄な自主トレなんてしていないで、ちゃんと働いとけよという話だが、私もカナダのまったりした時の流れの影響を受けていたようだ。

 おかげで自己流ボイストレーニング中のある日、殺気を感じて振り向くと、大きな犬が舌を出してずんずんとせまってきたことがあった。びびって乾いた砂を蹴ってあたふた逃げまどっていると、後から飼い主と思しき白人の女性が笑いながら余裕で後に続いてくる。

 

 「あなたが海に向かって何だか訳のわからないことを怒鳴っていたからよ」

 

 とまるでこちらに非があるような言い草だ。「おい、おい、シャレになってないでしょ」とむっとしたものの、これまた事情を説明すると長くなるのと、確かに客観的に見て、東洋人が海に向かって奇声を上げている構図は、彼らからすれば奇妙な風景に映ったことも理解し、ぐっとこらえ、日本人が得意とする愛想笑いをして耐えることにした。

 

 こうして可もなく不可もない日常が続いていたのだが、結果、最後は帰国を決意することにした。いくつか理由があったのだが、そのうちの一つが「浦島太郎」伝説だった。バンクーバーに長くいる日本人の中で、まことしやかに噂された話である。ここにどっぷり浸かっていると(何かと気忙しい)日本に帰ったところでやっていけないのではないかという不安を称してのことだった。

 

 「ずっとここにいると、日本に帰っても浦島太郎になっちゃうよ」

 (自分の身の振り方は冷静にちゃんと考えた方がいいよ)

 

 このセリフは複数の人から聞いた。

 

 さらに私自身、退路を絶ったつもりでカナダに来たのだが、日本の社会経験ゼロだったのは若干後悔をしていた。このままだと、本当の日本を知らずに人生が過ぎてしまうのではないか。その逡巡あった。実際、「自分は通勤ラッシュも知らないで、カナダにずっといることになってしまっているが、本当にそれでいいのだろうか。日本の現実から目を背けていただけではなかったのか」という、ある主婦が書いた日本人向けの現地新聞にあった記事も目にし、それも自分の背中を後押しした。

 

 さて、さて、あれから日本に戻って20年以上が経った。日本は変わったし、カナダも自分には見えないところで変化を生じていることだろう。で、結論からいうと、「浦島太郎」伝説は杞憂であった。しばらく日本社会に適応するのにストレスを感じていた友人もいたが、それもじきに慣れてくる。時間というのは素晴らしい治療薬だし、「住めば都」とはよくいったもの。また、逆に、一方で社会経験を積んだからといって、日本をわかったことにもならないし、そこに負い目を感じる必要も全くなかった。ただ、どれもこれも進んでみなければ納得がいかないことばかり。口でいっても、何かに書いてあっても、この手のことは、本人が自分の感覚で落としどころを見つけなければどうしようもないものだ。

 

 そして、月日が経てば、カナダがつまらない国だと言って去った、かつてのシェアメイトの気持ちも理解できるようになった。私が心の奥底では日本での生活に閉塞感を抱き、いっとき離れたように、彼もカナダでの未来が見えなくなってしまったのだ。ニューヨークで夢の扉を開いてもよし、バンクーバーに出戻ってよし。人間万事塞翁が馬、人生の選択の結果をあれこれ嘆いてみても始まらない。

 

 人生の回り道だったとはいえ、この日本にいても、時たまカナダやバンクーバーという言葉を見聞きしただけで、どことなく温かい気持ちになれる。これはお金で買えることのできない、短い期間ながらも地味な日々の生活が作ってくれた財産である。室生犀星は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と逆説的に語っているが、私にとってのバンクーバーはそこまで手垢にまみれた「ふるさと」でもないので、第二、第三の故郷として都合よく解釈させてもらっている。それにカナダの西海岸に位置するこの地は、いまや外国人にとってとても優しい場所だ。

 

 この稿を書いているとき、ちょうど2015年の女子サッカー杯がカナダで開催されており、バンクーバーだの、エドモントンだのといった地名もちょこちょこニュースに載ってくる。ニュースバリューの限界からか開催地に関する報道では、少なくても私は一秒たりとも目にしていないが(男バージョンでは、タレントが地元ツアーなどするものだが)、なでしこジャパンは準優勝という輝かしい戦績をバンクーバーで手にした。素晴らしい大会として彼の地が、人々の記憶に残ることを祈る。

 

 いまは日本でやり遂げたいことがあり(さすがにそれは妄想というより、もうちょっとマシなところまできているが)、それが実現するまでここを離れるわけにはいかないけれども、うまくいったら、いつの日にかまた、大人的にしっかり身辺整理をして、キツラノ・ビーチに戻り、ゆっくりとした定住生活を送るのも一興かなと、改めて妄想を抱き始めている。あ、その前に、錆びついた、というよりもともと、たいしたこともなかった英語を何とかテコ入れしないと。あと猛犬対策で自分でも当地で犬を飼うことにしよう。リベンジ(←執念深い)。海外で犬を散歩するのも楽しそうだし。それからせっかくなのでニックネームは再び「トム」にして、馴染みのお店を見つけて……と、まあ、妄想はいまから膨らむばかりだ。いくつになっても妄想が現実に力をつけてくれる。これまでは人生の寄り道だった、バンクーバーに感謝!

 

(追記)

・若い人に向けて

こういった話を真に受けて、安易に海外に飛び出すとヤケドすることもあるので、注意は必要です。英語がうまく話せず、数ヶ月は家にこもって泣いていた、過食症になったなどという友人もいました。また、日本は海外のコミュニティが比較的強いので助かるところはありますが、バンクーバーでも職が見つからず、安宿で1ヶ月以上滞在を強いられたという人もいます。

それに、日本にいる家族や友人知人に日々心配をかけることになるのも忘れてはいけません。

私のような人間を反面教師にもして、いろいろと表裏加味した上で、海外の空気を体感することを大切にしてください。

 

プロフィール

氏名:鈴木武道(すずきたけみち)

入学年・学部:1988年入学 文学部

卒業後、カナダで新聞の広告営業、帰国後、新聞記者、企画会社スタッフ、塾講師、DTP制作者から、DTP制作会社を立ち上げ、独立。さらに、雑誌発行人、編集プロダクションプロデューサー等々紆余曲折を経て、現在は書籍出版社で編集者をやっている。

 

名前はペンネームでも構いません。

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