今、そこに「在る」アウシュビッツ

堀江達夫 1963年入学

 

*アウシュビッツは何処にある?

皆さんはアウシュビッツは何処にあるかご存知だろうか? 殆どの人は「ドイツ」と答えるのではないか。ところが、実際は違う。

私は201469日 オシフェンテムを訪れた。そこは、アウシュビッツという名前で知られる有名な捕虜収容所である。アウシュビッツという名前は知っていてもそれがどこにあり、どのような規模だったのかを知っている人は少ない。英友会の2代目会長の佐藤さんも、その国で働き生活していたが、つい行きそびれてしまったそうである。

オシフェンテムは現在のポーランドにあってドイツにも近い。1939年、ドイツがポーランドをソビエト連邦との密約により挟み打ちで占領した当時は、ポーランド陸軍の基地であった。そこはドイツにも近く、管理しやすかったのであろう。ドイツは、この地を「アウシュビッツ」と名前を変えて、主にポーランドの政治犯の捕虜収容所として使っていた。

しかし、やがてドイツ支配地域でユダヤ人を囚人として収容するようになると状況が一変する。1日何千人も貨車で送られてくるユダヤ人を収容する為にオシフェンテムが選ばれ、設備が次々に作られた。

今も残る昔のままの数十もの宿舎跡を訪ねると当時の囚人の暮しがよくわかる。最初は1つの区域だけだったのが、貨物の引き込み線が作られ、貨車に満載された囚人が送られてくるようになると今迄の設備では足りず、2キロ程離れた場所に第2アウシュビッツが作られた。そこは別名「殺人工場」と言われ、大量に短時間で、人を殺す為だけに作られた施設と場所であった。

案内をしてくれたの外国人初、アジア人、そしてもちろん日本人唯一の公式公認ガイドの中谷剛さんであった。ガイドはたくさんの国から訪れる人を案内する為、いろいろな国籍の人がいるが、「公式」ガイドは限られている。アウシュビッツの知識は勿論だが語学力、説明力、さらにはこの痛ましい事実に対する「思い」が試される。それに広大な敷地を数十か所歩くのだが、移動手段は殆どが徒歩なので、体力が必要だ。1回2~3時間のツアーを、1日数回こなす。1回だけでも、訪問客であった我々ですらへとへとになったのだから、それを切れ目なく数回こなすガイドとなると、相当きついことが窺える。ポーランドは、寒い北欧のイメージがあるが、地理的に中欧、実際は暖かな南欧といった方がよいだろう。果物が豊富、気候も快適。だが、明るいが、暑い日差しがジリジリ照りつけ、木陰に入らない限り体中が汗でビッショリになる。休憩場所が殆どないので、中谷さんは大変だろうと想像した。

 

 第一アウシュビッツ

回る順序は、特に定められているわけではないようだ。人や国柄により見たいものも変わる。広さ1.75平方km(53万坪、東京ドーム37個分)。とにかく広い。我々が回った順序で説明を進めよう。初めに訪れた捕虜収容所博物館は初期の収容所である。入口に大きく、「労働すれば、自由が得られる(Arbeit macht frei)」とドイツ語で書かれている。ドイツ人の当時の労働者の心情を言葉にしたようだが、転じて、捕虜になっても働いていれば自由が得られるという意味合いに使われた様だ。実際には捕虜が強制労働に携わる事は少なく、殆どの人が、到着して直ぐか間もなく殺されたと聞いた。

博物館と言っても、特別大きな建物があるわけではなく、昔の囚人宿舎(真中が廊下になっていて両サイドが部屋になっていたと思われる長屋構造)の建物27棟、他に病院、食堂跡等がある。それが全部、第一収容所における博物館であり、中を改装して数々の展示物が並んでいる。犠牲者の出身国別の展示もある。その一つひとつに驚かされる。

初めに目にしたのは、収容所の初期の頃の殺人施設、ひとりがやっと入れるくらいの大きさのサウナ風呂の様な部屋である。封印して、そこに毒ガスを注入して殺していたようだ。後でみる巨大な施設に比べると、こぢんまりとした場所だが、生活感がある分、逆に恐ろしさを覚える。

次の施設でびっくりするのは、おびただしい数のトランク。名札が付けられているが、宛先がアウシュビッツ。ゲシュタポに逮捕されて、財産を整理して、当面必要なものを詰めて、トランクに入れて送られたもののようだ。バッグが到着した時には、本人はもう殺されていたそうである。女性/男性もののトランクが数千数万と積まれているのを見ると、悲しくて涙が出てくる。

別の棟に行くと、メガネだけ、何万個と、天井まで高さ一杯、4-5メートルの幅と奥行き2メートル程のスペースに積まれている。今のメガネと違って殆どが円形のレンズと円形の縁の眼鏡(ロイドメガネの金属縁)が天井まで隙間なしに積まれているのを呆然と見ていた。メガネを必要とした人にはカケガイのないものだったろうが、主人を亡くしたメガネだけが当時の状態を思い出させてくれる。

一番背筋が寒くなる思いがしたのは、当時の上層部宛ての報告書である。その報告の中に「今月は2百数十トンの金を回収した」と記載されていた。数グラムとか数キロでなくて、数十トンベースの金を毎日回収していた。当時のユダヤ人たちは、全財産を、金に替えて、収容所まで持ってきたのであろう。その人たちの財産を、収奪して、戦争の資金として、使用したのであろう。ユダヤ人収容の裏の目的が、わかったような気がした。

 

 第二アウシュビッツ

 まだ人間的な匂いが残っている第一収容所に比べ、ビルケナウの第二アウシュビッツに行くと様相が一変する。個人住宅から巨大工場に来た感じである。見渡す限りの広い原っぱに巨大なレンガの建物と木造バラックが、いくつも建てられている。大量殺人の為だけに作られた殺人工場だ。一人ひとりを扱っていた第一と違い、頑丈な高い天井の巨大倉庫の様な棟では、小さい石鹸を渡され、囚人全員裸になったところで天井から毒ガスがでて、殺されたそうだ。その後の死体の処理は全部ユダヤ人にやらせたそうである。役に立つものだけは取り、残りは廃棄された。恐ろしいのは、人体実験を、いろいろやっていたこと。薬の実験や毒薬の実験、妊娠の実験。ドイツの科学者が今迄できなかった実験を系統的に行ったそうだ。死体を使った事業もあったようだが、悲惨すぎるのでここでは割愛する。

 

*アウシュビッツの意義収容所を残す理由

 2つのアウシュビッツを見学して、あまりに巨大なスケールに圧倒された。人間がここまで人に冷たくできるのかと、参加者一様に言葉がなかった。中谷さんから言われた事は、

写真を撮ってよいが興味本位ではやらないで欲しいということ。実はアウシュビッツは、国連やEUが見学を奨励しているそうだ。その結果、統計を取って以来、毎年訪問者数約100万人で、毎年増加しているとのことである。我々が行った時も、小中学生や幼稚園児の様な小さい子が先生に先導され団体で来ていた。

何故ナチスドイツは、ユダヤ人にあんなに冷徹にできたのだろうか? 歴史的な背景として、キリストを迫害したという気持ちがそこにあるのは事実であろう。また、現実的な問題として、ユダヤ人がいる事によって、資源や食糧が奪われる。ユダヤ人がいなくなれば、それだけドイツ人や他の人種が生きられる。だからユダヤ人を排除しようという考えがあったようだ。現在のヨーロッパが、推し進めているのは、他人を差別する心を無くそうという運動である。ナチスドイツだけでなく、旧ユーゴスラビアでも「人間浄化」という考えの基に、異なる宗教、異なる人種を、無差別に殺した戦争があったことは記憶として生々しい。そこで差別する心や気持ちを持たないように、子どもの時から教育していこうとしている。現在欧州では、EU内に入りたいという国がある一方、離脱したり、加入に躊躇したり反対したりする動きもある。その根底にあるのは、同質のもので固まり、異質なものを排除する気持ちであると言う。EUでは人の中に芽生えるそのような気持ちを抑えようと、アウシュビッツを教育の場と位置付けているようだ。

ナチスドイツの崩壊をドイツ国民は1月17日としている。ヒットラーのいたベルリンが崩壊したのは5月である。1月17日はアウシュビッツが解放された日である。本来、自分達が被害を受けた事象はよく覚えているものだが、ドイツは、この日を加害者として記憶にとどめる為に記念日としている。日本も被害を受けた日は覚えているが自分達が加害者となった事件や日を、語り継ぐ意識には乏しい。ドイツに見習うべき点があるのではないだろうかと思った。

 

プロフィール

氏名:堀江達夫

入学年・学部:1963年入学 工学部

卒業後シェルで働き、国内転勤5か所の後

公用語が20以上という国際的研究所で働き

帰国後、新しい研究所の立ち上げに関わる。

退職後5つの会社で働き、引退。

現英友会第3代会長

名前はペンネームでも構いません。

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