徳屋友彦 1959年入学
4月に入学した際、何か部活をやろうとSESに入部したのですが、何と驚いたことに当時クラス(工学部機械科)41名中、9名実に四分の一に近いクラスメートが同じSESに入っていました。 新入生へのクラブ勧誘活動が巧みだったのか、或いは女性部員が多いという評判が効いたのか分かりませんが、とにかくビックリでした。
いくつかの班に別れて、先輩リーダーとの親しみながらの英会話は、それまで読み書きが中心で聞いたり、話したりしたことが殆どなかった私にとって極めて新鮮で、興味深い印象を受けました。
部室内でのコミニュケーションや夏季合宿での他学部の人たちとの交流はいろいろな考え方や個性の持ち主に接する絶好の機会でもありました。
また、時折あった他大学との交流もテーマを設けてのDiscussionだけでなく気脈の通じ合える仲間との個人的な交流も出来て視野を拡げるのに多いに役立ったような気がします。
当時、稲毛での教養課程が2年で終わると工学部の専門課程は松戸校舎でしたのでSESの部室に行くこともなく英会話の機会も殆ど無くなりました。
社会人となってから、当初製造工場に配属になり英会話の機会は全くありませんでしたが、10何年か過ぎて本社に異動になってからは、海外の顧客と接触する機会が生じ、英語を使う機会が増えてきました。どちらかというと商品開発或いは顧客への技術サービス的な仕事が主でしたが、自分でPresentation資料を作成し説明するケースが結構ありました。
その頃は、まだノートパソコンなどはなく、せいぜいオーバーヘッドとスライドを駆使しての説明でしたので自社製品に対する顧客の理解や好印象を得るために自分なりに工夫したりしましたが、昔SESでのDiscussionなどで相手に理解してもらうことや説得することにも通じるものがあり、懐かしい気がしたおぼえがあります。
今でこそ、Information Technology の発展でPCを持ち歩いてのPower-pointやVideoの活用などPresentation方法もスマートで効率的になってきていますが当時の場合はもっとマニュアル的で決して効率的とは言えなかったかも知れません。
しかし、何か心の通った顧客との触れあいが濃かったような感じがしています。
ともあれ、私にとってSESはコミニュケーションの大切さを教えてくれたスタートポイントであったと思うこの頃です。
プロファイル
氏名:徳屋 友彦 (とくや ともひこ)
入学年・学部:1959年(昭和34年)入学 工学部 機械工学科
1963年 日本鋼管(現JFE Steel)入社
主に石油・天然ガス掘削用鋼管(油井管)の製造および市場開発に従事、
セールス・エンジニアとして産油国を中心に数多くの国々(65ヶ国)を訪れた
名前はペンネームでも構いません。
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